僕は重さんからもらった缶コーヒーを持って正門に向かって歩いた。
 重さんはずっとうれしそうに僕の方を見ていたが、僕にはそれ以上どうこうする気持ちはなくて少し気まずかった。
 それよりもむしろどこかに座って、海でも見ながらもらった缶コーヒーを飲みたかったので、アプローチを正門の少し手前まで来たところで、僕は芝生に入り込み寝転がった。
 風も日差しも心地よかった。何度も最高、最高と心の中で叫びながら晴れ渡った空を見上げた。久々に芝生に寝転がって見る海も目の前にあった。
 そして、寝転がったまま背伸びをして視線を下げたとき、僕はほんの3メーターほど先にある、塀に開いた40センチ四方の穴に目を奪われた。
 グレーの壁面にほんの数秒間焼き付けられた絵は、僕が以前何度も見た風景に良く似ていた。
 それを見た時、僕は一瞬動けなくなっていた。
 
 小さな額縁の向こうに見える、絵に描いたような風景。
 入り江の穏やかな海の沖をフェリーがゆっくり動いていて、1キロ先に少し霞んで見える対岸の林の中には、ポツンポツンと白っぽい建物の影が見える。右側から突き出た丘には何本かの大きな木が生い茂り、入り江沿いの道はここから見ると遊歩道に見える。
 「そうだ、これはファーム・コーブだ。」
 僕の頭の中にシドニー湾のファーム・コーブ全体の風景が浮かび上がってきた。
 遠い遠い日に何度も通って見た風景。僕にとって希望と不安と自信とが入り混じった旅がスタートした街の、思い出の場所がフラッシング・バックしてきた。

 そして、沢山の思い出とともに、あの頃住んでいた場所、公園、裏通り、沢山のカモメ、海、バス、行きつけの肉屋、毎日行ったパブ、様々なものが次から次へと浮かんできた。
 安宿の中庭、ドミトリーの部屋、エントランス側のテラス。あの頃の仲間達が、あの頃の若さのまま笑っている。
 「あれは本当にあったことだろうか。」ふとそんな気持ちが過ぎった時、
 懐かしい人達の中に、僕を不思議そうに見つめるあの人のまなざしを感じていた。



 

1982年5月  バックパカーズ・ホステル、ヴィクトリア・ストリート16×番地


  すべてのはじまり

 僕がオーストラリアにワーキングホリデイ・ビザを利用して滞在した1980年代のシドニーは、僕らにはお世辞にもぱっとした近代的な都市には映らなかった。
 シティーのメイン通りを歩いてもモダンさを感じさせる店は少なく、パディントン・マーケットのあったダーリング・ハーバーは古ぼけた倉庫だらけだったし、ロックにでかけても気の利いた店は数件しかなく、僕達がわざわざ出かけて週末を過ごすこともなかった。 
 僕が住んでいた南半球いちの繁華街と呼ばれるキングスクロス界隈にしても、東京やニューヨークを知っている僕らは田舎町のメイン通りだといっていつも馬鹿にしていたくらいで、ラスベガスや東京のようなケバいネオンが夜空を照らすような明るさはなかったが、ただそこが紛れも無く歓楽街だといえるものをあげるとするなら、ダーリングハーストの通りにポツン、ポツンと立って気軽に声をかけてくるストリート・ガールと、いつも決まった場所でおきまりのパーフォーマンスをしているストリート・ミュージシャン達の存在くらいだった。

 確かにシドニー湾は世界でも有数の美しいハーバーといわれるように、オーストラリア人だけでなくこの国を訪れる全ての人達を魅了するだけのものがある。オーストラリアに入る前にガイドブックで何度も読んで想像を巡らせていたことを裏切ることは実際なかった。
 市内の公園や、郊外の自然も美しく、もし僕がたった一週間の団体旅行で訪れていたなら、間違いなく僕はこの国に魅了されていただろう。
 だけど、観光目的での短期滞在ではなく、オーストラリアのいち都市で長期滞在生活を始めてみると、僕達はのっけからなにをして毎日を過ごせばいいのか。何がこの街や国を楽しい思い出を生むものに変えてくれるのか。僕を含めて日本から来た多くの連中はあまりにも刺激の無いのんびりした生活に、そこから考えて生活をスタートさせざるを得なかった。
 
 月曜日から金曜日までシティー・セントラルは、一様世界の大都市同様ざわめきのある街の様相は呈していた。通りには多くの車が行きかい、朝夕にはビジネスマンが地下駅から沢山吐き出され、メインストリートには観光客や買い物客の姿が沢山見られた。
 しかし、それが週末を迎えると様相は一変する。多くの商店、銀行はシャッターを下ろしてしまい、もちろんのことビジネスマン達の姿はなくなる。シティーの週末の閑散とした光景は、日本の24時間、365日動き続ける都市で暮らして来た者には、廃墟の街を連想させられるものがあり受け入れがたいものがあった。
 この大きなギャップに戸惑ってしまった僕達は、刺激の少ない生活のうえに週末まで行き場を失い、大多数が一時的にストレスを感じてしまっていた。

 ただそんなことも滞在を始めて一月も過ぎた頃には、ほとんどの者は慣れてしまっていた。現地の言葉も満足に喋れないものは諦めが早いのも事実で、こんなところに農耕民族の特性がいきるもの皮肉なものだった。。
 それは見知らぬ始めての国で生き抜くことをまず第一に考えなければならない者にとっては、現実を素直に受け止めて、物事を前向きに考えるということは誰にとっても不可欠なことだと、初めて切実に感じるからだとも言えるだろう。
 そうして反発心や文化先進国人的プライドが消えてくると、この国に定住を始めた者達の心にこれまでとは違った変化が生まれてくる。一番の変化は街中で刺激を求める気持ちが失せていく変わりに、そこいらじゅうにある自然を相手にする遊びを覚えるようになることだった。

 




 オーストラリアに入って半年近くが過ぎ、現地のリズムにも言葉にもやっと慣れかけた頃、僕はキングスクロスの安宿に滞在しながら、2ヶ月半ほど前から毎日、ノースシドニーにあるオフィースビルの新築現場に職を得て通っていた。
 キングスクロスからノースシドニーへは、朝はイースタンサバーブラインの電車にキンクロ(キングスクロスの略)の駅から乗り、タウンホールでノースシェアラインに乗り換えてノースシドニーの現場に行き、帰りはよくタウンホール駅のひとつ手前のウィンヤード駅で降り、そこから歩いてサーキュラーキーをまわりボタニックガーデンに入っていた。
 ボタニックガーデンを横切り、ウールームールー地区を通ってキンクロに帰っても3キロ弱くらいの距離なので、3時半に仕事が終わって時間つぶしをしながら帰るにはちょうどいい回り道だった。

 だいたい僕がこのコースを選ぶ時は、決まってサーキュラーキー駅の側のフィッシュ・アンド・チップスの店に立ち寄り、チップスをラージサイズで買ってボタニックガーデンに入っていた。
 ちょうど時間が時間なので、昼食を早い時間に取る僕にとってはおやつの意味合いがあり、よく手入れされたフワフワの芝生に寝そべり摘むのだが、その殆どは僕の胃袋に納まるというよりも、人間の持っている食べ物を目ざとく見つけては集まってくるカモメの胃袋に収まる方が多かった。多くのカモメにぐるりと囲まれ睨まれたうえにギャーギャー騒がれればそうするしかなかったからだ。
 むろん彼らがマナーのいいお客だとは決して言わないが、内心は僕もそうして彼らに接することを楽しんではいた。

 雪の降らないシドニーの街の5月といえば、ちょうど日本の秋でも最も良い時期である10月に似ている。
 空は蒼くてずっと高く、芝生に寝転がって感じる汐風は実に心地良かった。
 僕が寝転がる場所はだいたいいつも決まっていて、ほとんどが入り江に沿ったU字型をした公園の中ほど、入り江に沿った遊歩道から2、30メーター入った所で、ここから見下ろすと目の前にはファーム・コーブ(入り江)が広がり、その左手の突き出たところにオペラハウス。そこから直線にして300メートル隔てた入り江の反対側右手には、このガーデンに含まれるミセス・マッカリーズ・ポイントが突き出ている。
 そして、この入り江とシドニー湾の向こう側はノースシドニーのキリビリやクレモーン・ポイントの住宅地で、複雑に入り組んだ入り江のブッシュの中に白っぽい建物がちらほら見えてた。
 
 僕はいつも何か貰えるんじゃないかと遠巻きに構えるカモメの存在が煩わしかったが、それでもここに来てのんびり寝転がったりうたた寝をするのが好きだった。
 まともな仕事にも何とかありつき生活に困らないだけの収入はあったし、この頃には日本に居た頃の煩わしい物事もすっかり忘れかけていた。海外に出て自分勝手だが開放された思う気楽さと、生活環境に不安を感じないですむようになった安心感も入り混じり、その上にこんな良い自然環境が目の前にあれば、誰だって幸せな気分になれるのは当然だ。
 おまけにこの入り江に面しただだっ広いガーデンに入り込むと、誰も自分のいる領域にずけずけと入り込んで来る者は無く、たまに側を人が通り過ぎる時に気をそがれる意外は、いつも自分の世界に浸ることができた。






 僕がオーストラリア滞在中の一時期を暮らしたキングスクロスのバックパッカーズ・ホステルは、キンクロの駅を出てヴィクトリア・ストリートを北に少し下った所にある。
 ヴィクトリア・ストリートは南半球一の繁華街と呼ばれるダーリングハーストの通りとは背中合わせの通りにも関わらず、この通りには閑散とした静かな住宅街の雰囲気があの当時はあった。
 もしあの当時のこの通りにこの地区に関係したものを探し出すとしたら、ホステルからさらに少し先に行った所にあった高級売春宿くらいなものだったと思う。それも見かけは普通の民家だったから、別段雰囲気を壊すような存在ではけしてなかった。
 不動産屋、雑貨屋、コインランドリー、それからたった一軒だけこの地区にあった日本レストラン、高級売春宿。それ以外は普通の民家が建ち並ぶだけの通りに、少しだけ歴史を感じさせる建物を使ったホステルが道に面してあった。

 あの当時この地区にはここを含めて似たような安宿は4軒しかなく、その中でもロケーショウン、雰囲気、ベッドの数などで一番人気があったのはこのホステルだった。ヴィクトリア・ストリートから見た感じではそれほど大きな建物には感じないのだが、建物自体は裏のアール・ストリートまでつながっているのでけっこう大きな建物と言ってよかった。
 玄関は建物の左側のアプローチに沿って少し入ったとこにあり、アプローチの両側の花壇には何本かの木と観葉植物が植えてあった。
 アプローチから玄関に入ると正面奥の小さな部屋がレセプションになっていて、その少し手前左に二階に上がる階段があり、階段の横の通路を裏に抜けて行くと建物の奥、アール・ストリート側にあるダイニング、キッチン、中庭などに行ける。

 当時ここのスタッフは僕と同年代のオーストラリア人が2、3人と、リーダー格の初老の男性とで切り盛りしていた。
 初老の男性スタッフ、ピーターは気さくで気配りのきく男で、たまに中庭で僕が暇をもてあましていたりするとよく声を掛けてくれていた。特にこの頃はまだ日本とオーストラリアとの間にワーキング・ホリデイ制度が結ばれて間もない頃で、ここのゲストにもそれほど多くの日本人がいなかったのと、それまで滞在した日本人が彼らから見て幸運にもイメージを壊すような事をしなかったせいか、我々日本人に対する接し方は非常に良かった。
 僕がここでの生活にすっかり馴染んだ頃には、ピーターもすっかり気をゆるしてくれていて、僕はよく週末になるとダーリング・ハーバーのパディントン・マーケットに一週間分の野菜や果物を買出しに行っていたが、彼にはよくおつかいを頼まれていたものだった。
    


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